号外 さらばハムレット
2008年7月15日 YP(役者ポイント)ハムレットが終わった。
France_pan内オーディションを経て、ひとまず読む編(リーディング公演)限定で、という前置きと共にハムレット役をもらった時、僕は誓いを立てました。何があっても頑張り通そう。
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読む編。
坪内逍遥の訳と仲良くなるまではひたすら苦労しました。でもずっと読んでいくうちにハムレットがだんだん見えてきました。伊藤さんに教えてもらった福田恒在の解釈にかなり影響を受ける。
みんな忙しい今日、演出家や俳優は戯曲という素材そのものと向き合う時間をケチる傾向にあります。演出家が作家を兼ねる場合はもっとひどくて、野菜を育てながらそれをスープにしているような現状もあります。
そんな中、ワークインプログレスの一貫としてリーディング公演を設けた事で、戯曲(少なくとも上演台本)と一対一で向き合う事ができた事は非常に意義深い事だったように思う。読む編にも演出はつきましたが、それでも戯曲とその中の素材としてのキャラクターとじっくり向き合う事ができました。
キャラクターって言うのは料理名ではなくて素材の名前であるべきだと思う。素材が引き立つ料理法があるだろうし、その料理人の得意な調理法があるはずだからです。
最初っから麻婆豆腐を作ろうと、その事ばかりを考えていると麻婆豆腐しか作れない。でもじっくりと最初に豆腐と向き合うことで、「あれ?まてよ?湯豆腐もいいんじゃないか?」なんて思い始める。ニュートラルに戯曲と向き合う時間の重要性。
演技する男、ハムレットの原型が出来上がる。死ぬまで演じつづけ、演じながらその喜びに奮えつつ死んでいく男。
二回公演、夜公演は完全にガス欠。猛反省。
********
遊ぶ編。
方向が定まっていなかった最初は稽古自体がうやむやな感じでしたが、向かう方向が決まると、読む編でできた原型ハムレットが勝手に遊び始めました。引き続きハムレットをやる事になる。
絶対に全力でやる、という上記の誓いと、読む編でできた原型ハムレットがすさまじい勢いで化学反応を起こしました。原型ハムレットとという馬に乗った僕がひたすらそのお尻を鞭で打っている感じでした。
遊んでいるうちに原型ハムレットはだんだん大人になりました。上演台本から決闘のシーンがなくなったのも大きな要因ですが、最後まで演じつづける男ではなくなりました。一直線な原型ハムレットにかなり未練があった僕でしたが、遊ぶ編で育ったハムレットの方にシフトする事にしました。
でも、ただただひたすらバカで一直線な原型ハムレットもいつかどこかでもっと作りたいと感じています。
原型ハムレットでは大して気にしていなかった母との関係性がだんだんハムレットの中で大きくなってくる。アーネスト・ジョーンズに影響を受ける。そして母への執着が大きくなった結果、母の部屋でのシーンは演じるハムレットと演じないハムレットが戦うことになりました。
この、演じるハムレットと演じないハムレットとの戦いというインナー・コンフリクトが読む編と遊ぶ編の一番大きな違いだと思います。
遊ぶ編のハムレットは、走る人間を目撃した後、演じる事を捨てる事になるのですが、本番の初日までは、そこの自分自身に対する説得力が少し小さかった気がします。本番二日目はそこを他者の発見という自分の中での山場とする事で、リアルな変化が訪れました。
遊ぶ編、いい加減遊び尽くしましたが、遊びも全力でやると遊びでなくなってくるのが面白かったです。
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創る編。
稽古は全体として超スロースターター。背伸びをしようとしたことが原因。
最初は今まで作ってきたハムレットがどうしても創る編の空気となじまず、悩む。「ベースは同じ」という演出の言葉を信じ、ひたすら上演台本を読む。
ここにきて「何故ハムレットは演じるのか」ということを真剣に考える。読む編はひたすら演じ、遊ぶ編は演じると演じないの葛藤がありましたが、根っこの「何故」はしっかり掘り下げられていませんでした。
ある日仕事の休憩中、台本を読んでいて急にその「何故」が頭に浮かび、演技に逃げている男ハムレット、という像が出来上がる。
人生においてはみんな孤独だったり不満を抱えていたりします。それを忘れたりごまかしたりするため、人は自分に仮面をつける。しかしある人はそれだけではなく、他者にも勝手に仮面をつける。そうして勝手に自分の幻想の中に入っていく。そうして完全に外との繋がりは絶たれる。
ハムレットは他者に役割を押し付け、自分が書いた戯曲の中でおもしろおかしく生きようとしているのだ。誰かが自分が押し付けたその役割を破った時、ハムレットはその人間を逆恨みする。その典型が「尼寺へゆけ」。
そんなハムレットがポローニアスを殺し、母に別れを告げ、走る他者を発見し初めて、自分自身を振り返る。そこで自分を激しく恥じ、決意する。死ぬ決意か、生きる決意か。
そのように創る編のハムレットは出来上がっていきました。
上演台本の上がりの遅さもあり、タイムリミットに追われ中途半端な感じになってしまったのは残念。役としても作品としても惜しい。特に小屋入りしてからの「擬古体口調」縛りは、7月12日に書いたようにイメージはすごく湧きましたが、結局消化不良のまま、表現を完成しきる事ができずになってしまいました。
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とはいうものの永遠に稽古をするわけにはいかない。僕は今回の3ヶ月連続のHamlet!!!!!!!!、満足はしています。ハムレットの役をもらい、誓いを立て、ともかく全力で駆け抜けた結果、僕なりのハムレットは生まれたと思っています。
覚悟を持って臨む事の重要性を再確認しました。その公演が自分の人生にとって特別なものだという気持ちで臨めば、自分の人生が舞台に溶け出してくる。戯曲が自分の中に流れ込んでくる(そういえば三年前、NYへの留学直前にやった「洟垂レナバレ」という作品もそういう作品でした)。
でも自分が俳優だというなら、全ての作品がそういう「特別な公演」であるべきなんですよね。これからもこういう作品をたくさん作っていけたらいいと思います。
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ハムレット公演、三ヶ月、やりきった感はあります。というか本当に疲れ果てました。
しかし、まだまだ自分とハムレットは完全に混ざっていない。もっともっとハムレットと混ざりたい。いつかまた絶対にやりたい役となりました。
フラパンバージョンでは対話というものは全て行間に隠されてしまっていましたが、ホレイショー、レアティーズ、オフィーリア、ガートルード、クローディアス、ローゼンクランツ、ギルデンスターン、人間と実際に向き合った時に何が生まれるのか。何を発見するのか。
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しかしそんなことは今は本当にどうでもいい。もう一度言います。本当に疲れました。
ハムレットが終わった。本当に終わったんだ。
さらば、ハムレット。
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また会う日まで。
France_pan内オーディションを経て、ひとまず読む編(リーディング公演)限定で、という前置きと共にハムレット役をもらった時、僕は誓いを立てました。何があっても頑張り通そう。
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読む編。
坪内逍遥の訳と仲良くなるまではひたすら苦労しました。でもずっと読んでいくうちにハムレットがだんだん見えてきました。伊藤さんに教えてもらった福田恒在の解釈にかなり影響を受ける。
みんな忙しい今日、演出家や俳優は戯曲という素材そのものと向き合う時間をケチる傾向にあります。演出家が作家を兼ねる場合はもっとひどくて、野菜を育てながらそれをスープにしているような現状もあります。
そんな中、ワークインプログレスの一貫としてリーディング公演を設けた事で、戯曲(少なくとも上演台本)と一対一で向き合う事ができた事は非常に意義深い事だったように思う。読む編にも演出はつきましたが、それでも戯曲とその中の素材としてのキャラクターとじっくり向き合う事ができました。
キャラクターって言うのは料理名ではなくて素材の名前であるべきだと思う。素材が引き立つ料理法があるだろうし、その料理人の得意な調理法があるはずだからです。
最初っから麻婆豆腐を作ろうと、その事ばかりを考えていると麻婆豆腐しか作れない。でもじっくりと最初に豆腐と向き合うことで、「あれ?まてよ?湯豆腐もいいんじゃないか?」なんて思い始める。ニュートラルに戯曲と向き合う時間の重要性。
演技する男、ハムレットの原型が出来上がる。死ぬまで演じつづけ、演じながらその喜びに奮えつつ死んでいく男。
二回公演、夜公演は完全にガス欠。猛反省。
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遊ぶ編。
方向が定まっていなかった最初は稽古自体がうやむやな感じでしたが、向かう方向が決まると、読む編でできた原型ハムレットが勝手に遊び始めました。引き続きハムレットをやる事になる。
絶対に全力でやる、という上記の誓いと、読む編でできた原型ハムレットがすさまじい勢いで化学反応を起こしました。原型ハムレットとという馬に乗った僕がひたすらそのお尻を鞭で打っている感じでした。
遊んでいるうちに原型ハムレットはだんだん大人になりました。上演台本から決闘のシーンがなくなったのも大きな要因ですが、最後まで演じつづける男ではなくなりました。一直線な原型ハムレットにかなり未練があった僕でしたが、遊ぶ編で育ったハムレットの方にシフトする事にしました。
でも、ただただひたすらバカで一直線な原型ハムレットもいつかどこかでもっと作りたいと感じています。
原型ハムレットでは大して気にしていなかった母との関係性がだんだんハムレットの中で大きくなってくる。アーネスト・ジョーンズに影響を受ける。そして母への執着が大きくなった結果、母の部屋でのシーンは演じるハムレットと演じないハムレットが戦うことになりました。
この、演じるハムレットと演じないハムレットとの戦いというインナー・コンフリクトが読む編と遊ぶ編の一番大きな違いだと思います。
遊ぶ編のハムレットは、走る人間を目撃した後、演じる事を捨てる事になるのですが、本番の初日までは、そこの自分自身に対する説得力が少し小さかった気がします。本番二日目はそこを他者の発見という自分の中での山場とする事で、リアルな変化が訪れました。
遊ぶ編、いい加減遊び尽くしましたが、遊びも全力でやると遊びでなくなってくるのが面白かったです。
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創る編。
稽古は全体として超スロースターター。背伸びをしようとしたことが原因。
最初は今まで作ってきたハムレットがどうしても創る編の空気となじまず、悩む。「ベースは同じ」という演出の言葉を信じ、ひたすら上演台本を読む。
ここにきて「何故ハムレットは演じるのか」ということを真剣に考える。読む編はひたすら演じ、遊ぶ編は演じると演じないの葛藤がありましたが、根っこの「何故」はしっかり掘り下げられていませんでした。
ある日仕事の休憩中、台本を読んでいて急にその「何故」が頭に浮かび、演技に逃げている男ハムレット、という像が出来上がる。
人生においてはみんな孤独だったり不満を抱えていたりします。それを忘れたりごまかしたりするため、人は自分に仮面をつける。しかしある人はそれだけではなく、他者にも勝手に仮面をつける。そうして勝手に自分の幻想の中に入っていく。そうして完全に外との繋がりは絶たれる。
ハムレットは他者に役割を押し付け、自分が書いた戯曲の中でおもしろおかしく生きようとしているのだ。誰かが自分が押し付けたその役割を破った時、ハムレットはその人間を逆恨みする。その典型が「尼寺へゆけ」。
そんなハムレットがポローニアスを殺し、母に別れを告げ、走る他者を発見し初めて、自分自身を振り返る。そこで自分を激しく恥じ、決意する。死ぬ決意か、生きる決意か。
そのように創る編のハムレットは出来上がっていきました。
上演台本の上がりの遅さもあり、タイムリミットに追われ中途半端な感じになってしまったのは残念。役としても作品としても惜しい。特に小屋入りしてからの「擬古体口調」縛りは、7月12日に書いたようにイメージはすごく湧きましたが、結局消化不良のまま、表現を完成しきる事ができずになってしまいました。
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とはいうものの永遠に稽古をするわけにはいかない。僕は今回の3ヶ月連続のHamlet!!!!!!!!、満足はしています。ハムレットの役をもらい、誓いを立て、ともかく全力で駆け抜けた結果、僕なりのハムレットは生まれたと思っています。
覚悟を持って臨む事の重要性を再確認しました。その公演が自分の人生にとって特別なものだという気持ちで臨めば、自分の人生が舞台に溶け出してくる。戯曲が自分の中に流れ込んでくる(そういえば三年前、NYへの留学直前にやった「洟垂レナバレ」という作品もそういう作品でした)。
でも自分が俳優だというなら、全ての作品がそういう「特別な公演」であるべきなんですよね。これからもこういう作品をたくさん作っていけたらいいと思います。
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ハムレット公演、三ヶ月、やりきった感はあります。というか本当に疲れ果てました。
しかし、まだまだ自分とハムレットは完全に混ざっていない。もっともっとハムレットと混ざりたい。いつかまた絶対にやりたい役となりました。
フラパンバージョンでは対話というものは全て行間に隠されてしまっていましたが、ホレイショー、レアティーズ、オフィーリア、ガートルード、クローディアス、ローゼンクランツ、ギルデンスターン、人間と実際に向き合った時に何が生まれるのか。何を発見するのか。
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しかしそんなことは今は本当にどうでもいい。もう一度言います。本当に疲れました。
ハムレットが終わった。本当に終わったんだ。
さらば、ハムレット。
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また会う日まで。
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