晴れ。

 晴れの国岡山にやってきました。行くといいながらずっと反古にしてきた友人との約束を果たすため。まあ結論から言うと、行かん方が良かったって感じです。友達は財布無くすわ、卒業式シーズンでほっとかれるわ、いい事なしです。ちっとも岡山を堪能できなかった。友人宅で一人「キャプテン翼2」・・・ひどい。そのぐだぐださを、岡山出身のバイト仲間にメール、「何もないやんけ!!」やつ当たり。まあまあしょうがない。

 で、その泊めてくれた友人は岡山の大学を卒業して、大阪の院に来るとのこと。近隣に昔ながらの友達が増えるのはうれしいものです。

 昔ながらの友達。。。大学前の交友関係と、大学入学後(もしくは高校卒業後)のそれでは、大きな違いがあります。それはそこに「自分の意思」が入ってくるという点です。利害関係がそのもっともわかりやすい例ではないでしょうか。こいつとおったらテストは落とすまい。可愛い子と知り合えそう。もっと言えば、こいつに媚びといたら出世できる。そういうのが保つ友情というのは・・・、なんか怖い気がします。

 利害関係なんてそんないやな話をしなくても、自我がある程度完成された後の交友関係には色んなしばりが出てきます。例えば、音楽の趣味が合うから友達になる。これだってつまりは自分の意思の賜物です。伊藤をリスペクトするから、フラパンにいる。そうこともそうです。

 それと比べた場合、小中学時代、高校時代、と考えると、おそらくはさかのぼればさかのぼる程、当たり前ですが、そこには発展途上の自分がいました(今の自分が完成されているかどうかはともかく)。発展途上かも知れないけど、その自分が付き合う友達には、分け隔てはなかったはずなんです。そこには無償の友情が芽生えます。理由がない友情です。そして、その分け隔てない付き合いが、自我形成に少なからず影響すると。んー、なんか卵と鶏になってきましたが。難しいです。もちろん幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会と、世界は広くなっていきます。しかし、「自我の眼鏡」を増やしていく事によって、せっかくの広い世界で狭い世界を作っちゃってるんです。んー、難しい。出会いの絶対数は少なくても、昔のほうが世界、広かったんじゃないのかぐらいの、・・・難しいです。出会いの質と量が反比例するわけですね。

 しかしだからどういう事かと言うと、今もそういうニュートラルな目線を持つ事が出来れば、まだまだ自分は化けるという事なんです。極論かもしれませんが。でももちろん述べたように、そのさじ加減は極めて微妙なものです。

 んー、鶏と卵、卵と鶏・・・。親子丼を、私は食いたい。

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